はじっこに書きつけることば

ノートの端にする落書きのような奔放さ、乱暴さで書いていきます。

最果タヒの感想 ー腐りきった場所でゼロではない透明を思う

ふとした春の匂いで忘れてしまうぐらい、軽い気持ちで好かれていたい。(「春の匂い」『夜空はいつでも最高密度の青色だ』所収)

 

だれでもいいからぼくを深く憎み深く愛し、それでいてその感情に焼け死んでぼくには無干渉でいてくれたら(「ぼくの装置」『死んでしまう系のぼくらに』所収)

 

人と人のかかわりが、全面的に腐敗しているように思えることがある。

自分はいまも誰かとつながっているという認識が、たまらなく猥雑なものに思えることがある。

他人との関係が、私の人生を日々、少しずつ、しかし決定的に汚していることは、もはや時を選んで浮かんでくる不吉な妄想などではなく、片時も逃れようのない実感である。

 

正直にいって私は、私の生活はすでに決定的に、全面的に腐敗した場所で営まれていると感じている。美しいものも、醜いものも、すべて「あえて」という言葉に媒介されてしか存在できないような場所に、私の人生は置かれている。とても小さな世界の中でなら何をすることも自由だと教えられて、それでいて、その言葉の裏側に結局は何をしようと世界は決定的に腐っているのだからという含意を読み取らざるを得ないような場所に、私の人生は置かれている。手に余るほどのパッケージ化された選択肢を前にして、もはや、あるひとつの選択を信じることなどできずに、あらゆる自己の感情が、ただ可能なパターンの試運転としてみえているような世界に、私の人生は置かれている。そんな場所で私の生は、日々、透明に近づいている。

 

透明というのは、誰でもないということであり、そこから、初期設定として「誰か」として生まれてきてしまう現代の人間たちにとって、透明になる唯一の道とは誰でもある存在になることだけだ、という結論はすぐに導ける。あらゆる選択肢を目の前に広げて、それでいて、そのどれにも深く没入せずに、存在を宙づりにすること。つまりは、ひとつの可能体、ひとつの幹細胞になること。それでいて、私は、もしかしてそれはゼロになるということなのではないかと、いつも怯えている。私は透明になりたいと思っている。もはや、腐臭の混じる空気を吸わなくてもよいように。けれど、私は、ゼロになることは恐れている。どうしてだろう。ゼロになれば、もはや、空気の問題など消えてしまうはずなのに。

おそらくここに、いまだ宙づりな、現代の私の問題がある。

 

ふとしたときに、感情がやってきて、それでいて私がそれを認識してしまう前に、それが消えてしまえば。あるいは、誰一人として気づかないうちに、他人との間に結びつきがうまれて、そして失せてしまえば。私はまだわずかに希望を抱いていて、それは、感情や関係も、それが生起してくる瞬間のポイント、あるいは人間の認識によって固定化される一瞬手前においては、いまでもまだすばらしいものなのではないか、という希望である。おそらくこれは、いまだ宙づりな、現代の私だけの希望である。

 

未来の人間は、おそらくもう、私とは問題も、希望も共有できない。彼らの透明はついにゼロにいたるにまで完成して、腐臭は洗い流されて、無臭の空間がその果てを知らずに広がっているに違いない。そして誰か外国の作家が書いていたとおりに、そこはくすんだ、可能性に欠ける、可能性の光明のない場所でしかないのだろう。これは、悲観ではない。これは、確信である。

 

別に、そのことについてはもう何も思わない、というのは少し強がりかもしれないが、実際のところ、感想を付しうる余白もみつからない。最果タヒは、もうすぐ死んでしまうものの代わりに、最後の時間をつかって、詩を書いている。私は、その詩を読みながら、あとわずかな時間を静かに送ることしか、いまは考えられない。

最後は陽気な哲学者

しあわせであったら、ものなど考えないのだろうか。

少し前、ある人がそういっていた。そして、そのひと自身は苦しいのだと言った。だから自分は考えるのだと、頭から血を流して考えるのだと、俺に苦笑しながら告白した。俺は、ふうん、わかるよ、と返事をして、そして黙った。

 

こういう考え方がある。ひとはふだんモノを考えたりしない。ただ、習慣のみによって動く。たとえば休日、いつもとは逆の方向に乗らなくてはいけないのに、つい学校の方へむかってしまうということは、俺にはよくある。これは、駅に着くたび、どの電車に乗るべきかなどと考えたりはしていないことの証拠である。だけれど、駅の電光版に「ダイヤの乱れアリ」などと見つけた途端、俺は次の手を考えだすだろう。つまり、習慣が阻害されたとき、ひとははじめて考えるのである。

 

まあ、これは当然と言えば当然のことで、わざわざ誰かに言ってもらったりしなくてもはなから知っているようにも思うのだけど、でもやっぱり、大事なことだ。なぜなら、つまり思考には、失ったものを取り戻したいという気持ちがセットされているということだから。平衡が破れて、思考が生まれ、そして思考は、あの頃を回復しようとする。

 

ブルーノ・ラトゥールによるミッシェル・セールのインタビューの中で、印象的な場所があった。それは、ジル・ドゥルーズについての話で、セールはたしかこんなことをいっていた。

「彼はほんとうに不幸だった。たくさんのひとに攻撃されました。しかし、最後には自分自身の哲学によって幸せになったのです」

 

俺は、ほんとうに好きな人相手には、自分の心の中をすべてぶちまけてしまう癖があって、その被害者の中には、あるいは俺をひどいペシミストだと考えられている方もいらっしゃるかもしれない。うん、どうなのだろう。わからないけれど、たしかに俺の思考の裏側には、ある意味での復讐心があると、最近はよく思う。それはこの世界で胸を張れているものへの復讐心で、俺の中には根本的にそういうものへの劣等感があるのかもしれない、悲しいけれど。いまよりさらに若い頃には、その復讐心が現実に発露して、とても醜い出来事を起こしたこともあった。嫌な記憶だ。いまでもまだ、足を引き摺られている感じがする。

 

他人のことは知らないけれど、そんな俺にとって、考えることはやっぱり辛いことだ。いや、それは違うな。考えることはこれ以上ないほど気持ちがいい。思考する人間にはすべてが奇跡的に結びついてしまう、いわゆる「ユリイカ!」の瞬間がほんとうにあって、そういう時は信じられないくらい気持ちいい。恐れずにいえば、愛すら感じる。自分が愛の中にいると感じられるのだ。だけど、そうやって思考をつきつめていくたび、ほんとうにげんなりするのが目の前の下劣さで、自分の無力さである。よろこびにまかせて思考をすすめるたび、どんどん奥深く暗いところに迷い込んでいく気持ちがする。いや、というよりも、自分は特別に動いていないのに、どんどん世界のもつれや、嘘が見えてきて、苦しくなる。こうやってかくと、まるで思考は悪いオクスリみたいですね。しかし、ほんとうにそういう実感があるのです。

 

でも、哲学者はみんな、最後は陽気に生きるんだって、ここだけはとびっきりの単純さで、俺は信じている。思考は俺から満足を奪って、足場を切り崩し、逃げ道を断つけれど、その末には想像もできないような快活があるのだと、俺は信じている。これは宗教的だろうか。そうかもしれない。俺は思考する人間失格なのかも。まあ、いいけど。ジル・ドゥルーズは、最後は自殺しました。マンションから飛び降りました。でも彼はしあわせだったそうです。そういうことはあるかもしれない。哲学者最後の快活さは、もしかしたら自殺も受け入れるのかも。第一、自殺が不幸の表象だなんて、どうしていえるか。いえないでしょう。喜びの自殺だって、あるかもしれない。俺にはわかりません。

 

とにかく、いまはただ、来るべき開けを信じて、考え抜くことしかできない。思考する人間の道は、後戻りはきかない道だから。六十になったとき、七十になったとき、八十になったとき、俺はまるで初期化されたかのようにあっけらかんと笑うのだろうか。思考は初期化を目指して走る。思考する人の旅は、初期化の旅だ。回復。微笑み、まるで幼児のように。すべてに肯定を。そして、肥った酔っぱらいみたいに笑う。すべてに肯定を。青少年の馬鹿げた恋愛にも、ぷんぷん臭う文章にも、老いた人にも、肯定を。そして回復。肥った酔っ払いみたいに笑う。

 

そう、思考する人の旅は、初期化の旅だ。

 

 

「色々な考え方があるね」ではなぜ不十分なのか

俺がこれから書こうとしていることは、至極、当然のことである。けれど、そうした論理の裏側に俺の個人的な復讐心があることを告白しておくべきか。自分でいうのもなんだけれど、俺はわりと物事を考える子供だった。しかしそれ以上に、俺はアマノジャクだった。どうしようもない、悪童だった(いまもそうかもしれない)。先生のいうことをきちんと守る同級生の心の安全を、思わぬところから切り崩してやろうといつも狙っていた。こういう性質をもつ子供は珍しくないけれど、成長するにつれて彼らは抑圧されるだろう。幼い頃は大人が造った安全な足場をすこし揺さぶってやれば、優等生たちはすぐさま怒りだすものだったが、あるときから彼らは呆れた表情でクールにこう言い放つようになる。

「まあ、それも考え方のひとつだ」

この言葉が嘲りにすぎないことは、悪童ならみんな知っている。優等生どもは自分が真険に取り合いさえしなければ、俺たちは無力だと気づいたのだ。この言葉とともに幼い自分は黙らなければいけなかった。だけれどいま成長した俺は、あの頃の優等生どもと、いま目の前にいる優等生どもに至極当然な反駁をくわえてやろうと思っている。

 

優等生のキラーフレーズは、大人の世界では「多文化主義」とよばれている。青い地球をさまざまな民族衣装に身をつつんだ人々が手をつないで囲んでいるようなイメージ。多文化主義は世界平和と共に語られ、批判をうけつけない。けれど、悪童ならすぐに気づくことだが、そういうふうに動かしがたい前提とされているものの裏にこそ、こざかしい意図がはりつけられているのである。

それにまず、多文化主義と世界平和がむすびつけられていることは明確におかしい。理由は単純で戦争こそが文化の中核であるという人たちが世界にはたくさんいるから。人間の命は平等に尊く、それが他人によって奪われることは決してあってはならないというオモテムキをつくりあげたのも西欧人なら、その裏側にある無差別な大量殺戮としての戦争という観念を現実化したのも西欧人(と、わずかなアジア人)である。

結局のところ、優等生どもは大人になっても何も変わっていないのだ。ヤツラは「まあいろいろな考え方があるね」といっておけば、自分の考え方だけがゆいいつ力をもてるとよく知っている。そりゃそうだろう、君たちはすでに多数派として力を持っていた考え方に自分を馴らしたんだから。君たちは俺たちの思考を死んだ標本にして、立派な博物館にでもかざっておけばいいと思っているんでしょうね。

さらには多文化主義が、ひとつの世界に対する多数の見方という構図を前提にしていることも、まずい。これはナチュラリズムというひとつの関係の様式にすぎす、相対的なものである。フランスの文化人類学者フィリップ・デスコラのみるところでは、人類が持つ関係の様式はすべてで四種類に分類することができるのだが、そのなかには魂こそが唯一であり自然は多様に変化しうるという、ある意味ナチュラリズムと真っ向から反対するものもある(アニミズム)。つまり、多文化主義はそのよってたつ前提そのものに、あるひとつの様式を不公平に採用しているため、単文化的なのである。

ではさて、こうした優等生の支配に対して、俺はどういう作戦をたてればいいのだろうか。正直な話、実現性のある明確なプランはたてられていない。結局のところ一番いいのは棲み分けなのだけれど、資本が統制する現代にそれを説くことはあまりに非現実的だから。それに、安易に棲み分けなどといってしまえば、ヤツラの多文化主義に丸め込まれて、骨抜きにされてしまう可能性だってある。するとまずは、傷つき、傷つけることを恐れないということだろうか。コミュニケーションは、傷なしにはありえない。相手に丸め込まれるか、相手を丸め込まないかぎり、異なるふたりの対話は傷だらけである。そのなかで、あるいは、他人の異物性に気づくことができるかもしれない。棲み分けの契機が、うまれるかもしれない。とにかく、こちらの方で闘争を放棄してはいけないだろう。相手の足場を崩す、悪童的精神が求められている。そこで要請されるのが、文化の生成論である。その営為を通して文化の対立自体を(ある文化による専制を前提にするのではなく)中性化すること。文化の基体を会得すること。文化人類学者としてこういう仕事を達成できたら、それはきっと幸せだろうと思う。

旅の類型学ーーヴィム・ヴェンダース「パリ、テキサス」

当たり前のことだが、旅はひとつではない。

 

砂漠を歩く白痴的なトラヴィスは、初期化する旅を歩いている。

彼の旅は、象徴的である。一度、心についてしまった傷というのは、決して消えることなくその人生を決定していくものだが、トラヴィスが図るのはその一切の無効化である。

パリ、テキサス。自らの生の原点に戻ることで、彼は一切をはじめに戻そうとする。人生に、すでに、加わってしまった限定を消去し、可能性の無限に立ち返ろうとすること。このような旅を、私たちは、初期化する旅とよぶことができる。

 

ジェーンの旅は、現実的次元にとどまる旅である。

彼女は、ただ現実世界のコトを前に進むのを嫌がり、それに一時停止を加えているにすぎない。彼女は事実、すでに為された設定を放棄することはない。彼女は、すべてをそのままに保存しようとするのである。

このような旅は、一時停止の旅である。

 

捨てられたハンターの四年間を旅とよぶことが可能ならば、それは再設定の旅である。

実の両親と別れたとき、すでに三歳になっていたはずの彼が、叔父夫婦をほんとうの親とみなしていることは不思議ではない。すべては初期化され、そして再設定されたのであるから。ここでは、象徴的な次元のあとに、間をあけずに現実的な次元がきている。

 

ところで、トラヴィスの初期化の旅が中断される時点から、物語ははじまる。

象徴的回復は中断され、トラヴィスは強引に現実的次元に引き戻される。

これは同期する旅の出発であり、その道連れは彼の息子(ハンター)である。

そしてまた、衣装と遠近法によって殊更に示されるのが、この親子の同型性なのだが、これを言い換えると、ふたりは映画において同じ人間の反復であるということになる。

 

しかしなぜ、片方は頓挫し、片方は成功するのだろうか。

言い換えれば、なぜ、ハンターは母の元に帰るのに、トラヴィスはふたたび旅に出なくては行けないのかーー終わりのない旅が(ひとはその心の傷を無効化することなどできない)せっかく休止されたというのに。

 

私たちは、母の傍らにいるかぎり、象徴的に初期化されうる、とヴェンダースは言おうとしているのだろうか。若いジェシーは、トラヴィスからすれば母とみるにはあまりに性的であるが、息子ハンターにとっては全き母である。母性は生命を初期化する。だから、不十分に初期化されたトラヴィスは、不可能な旅へ向け、再び出発しなくてはいけない。自らが生まれた、パリ、テキサスへ。

 

この美しいフィルムが、ロードフィルムの傑作として記憶されつづけるのはこういう事情によってなのだ。

旅の類型学。ひとつの美しい旅のようにして映画人生を送ってきたヴィム・ヴェンダースは、旅が世界に出現するときに纏う様々な様相を、私たちに明らかにしようとしている。

初期化する旅、一時停止の旅、再設定する旅、同期する旅。

もし、人類が好む言い様が正しくて、人生が旅の比喩で語られるのだとすれば、私たちの生もすべて、こうした旅の要素の混交として読みうるものなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

鳥である私を気にしない大きな木

Nick Cave & The Bad SeedsのWe no who U Rという曲は、こうはじまる。
 
"The tree don't care what the little bird sings."

この感覚は、俺たちが生きるにあたって不可避なものじゃないか、とふと思う。
俺たちは、自分よりも大きな存在、自分が寄生しているところの存在から、いつも、徹底的にないがしろにされている。

重たい歴史が、他でもあったはずの俺の生を、この生に閉じ込める。
あの海を渡らなければ、あの支配を認めていれば、あの戦争に敗れなければ、俺は、俺の生に閉じ込められることはなかったはずなのに。

軽い偶然にしても、同じだ。
あの瞳が、あの男をとらえなければ、あの夜に雨がふらなければ、あの場所に何の障害物も置かれていなかったなら、俺は、俺の生に閉じ込められることはなかったはずなのに。

また、歴史や偶然は、異なる仕方でも俺たちを滅入らせる。すなわち、反復というかたちで。

俺の生は、俺の前に生きた人間の生と、たいして変わらない。ここで、ふたつ、あるいはそれ以上の生のあいだの違いに着目したところでしかたない。驚くべきなのは、ここまで自由であるはずの俺たちが、みんながみんな、大きく見たら似たような生を送らざるをえないというその事実である。

率直に言って、我々の自由は、日々、侮辱されている。あなたの生はあなた以外の生と、たいして変わりはしない。俺の生は、俺以外の生と、たいして変わりはしない。あなたが自分はどんなに自由で、オリジナルなのだと考えていたとしても。俺が、自分はどんなに自由で、オリジナルなのだと考えていたとしても。

あなたに何の価値があるというのか。なにも、オリジナルではないのに。存在は、耐えられないほどに、軽いのである。

そして一層、俺を絶望的な気分にするのは、しかし、そのような歴史、偶然ぬきには、俺自体が生きられないということなのだ。

俺は、歴史・偶然に寄生している。そして、歴史・偶然は俺のことを知らない。

繰り返すが、これは俺の生に対する侮辱である。決して乗り越えることのできそうにない、徹底した、侮辱である。生の意味を無みにする侮辱である。

しかし、歌詞自体はこう終わるのだ。

The tree will burn with blackened hand.
no where to rest, no where to land

一体いつ、そのときはやってくるのか。
この腹立たしいほどに絶望的な巨木が焼き倒れ、もはやよすがなき俺たちの本当の自由が訪れる日は。
俺が、俺だけのやり方で、俺の生を拡散できる日は。
俺が、もはや、俺としての同一性を持つことすらしなくてすむような日は。

いや、そんな日はこない。
だから、ニック・ケイヴはこう繰り返す。

We know who you are. We know where you live.
And we know there's no need to forget.

俺たちは、結局のところ、絶望しつづけるしかないのだとおもう。
俺が羽を休めるこの木、俺はその木をこの肌に感じているのに、それなのに、驚異的なまでに無力である。

しかし、ニックが語る通り、許す必要などないのだ。俺たちは、そこになにも負ってはいないのだから、歴史・偶然の前に膝をつく必要はない。
不条理な侮辱に怒れる反逆児でいなくてはいけない。無力であっても、憤怒に騒ぎつづける、手のつけられない酔っ払いのような人生で、いい。

俺は、俺がとまるこの大きな木を、決して許しはしない。














現在の俺が書いた談スの感想 ver.2

前回載せた感想が、すこしまとまりが悪かったので、大幅に編集しました。

こちらをよんでから、前回あげた方を読んでくだされば、もうすこしはいいたいことがはっきりするかとおもいます。

 

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ライトをあびた肉体が、むすび、ほどけ、ちぢみ、のびて、

それはまるでモノみたいにみえる。

それを観ながら、観客は口を大きく開いて笑っている。

笑いは内側からこみ上げる衝動であり、制御不可能な痙攣である。

笑う観客は、まるで機械みたいにみえる。

笑う観客は、まるで、モノみたいに見える。

 

談ス。

この作品は一貫して、身体のモノ性をとりあげているのだ。

 

俺たちはふだん、自分の身体はなにか特別で、そこらにあるマグカップやらパソコンのキーボードやら落ち葉とはまったく異なる「モノ」であるかのような幻想を抱いているけれど、死ねばひとの身体は腐るだけだ。人間の身体は、まさしく、モノの領域にあるのである。

 

この作品は、あの手この手をつかって、そのことを証明しようとしている。

だけれど、それは綱渡りの難関であるはずだ。

もし、理性の力でそれを説明しようとすれば、すぐさま、シンプルな矛盾にいたってしまうからである。

しかし、この作品は笑いの力によって、その難関をすんなり超えてしまった。

笑いはまことに、モノの世界への良き先達である。

 

笑いというのは、そもそも、人間の上半身の幻想が、身体=モノの領域によってその虚勢を暴露されたとき、生まれるものだ。綺麗に着飾った紳士が転んだとき、政治家の勇壮な演説が突然の便意によって中断されたとき...。

俺たちはこの世界の真実の支配者は、モノなのだと思い知る。

そして、あっけらかんと、笑ってしまうのである。

 

だから、うんちやおしっこはいくつになっても面白い。

俺たちは、ふだんどんなにすましていても、突然の便意に文字通り、振り回される。

身体のほんとうは、おもたく、不可思議で、まっくらなのだ。

 

談スには、こういう笑いの感覚がしっかりと胎動している。

だから観客は、晴れやかな気持ちで笑いながら、すこしずつモノへと変わっていく。

そのとき、ふだん拘泥している、人間たちの幻想の世界はがらがらと解体し、さわやかな広がりがあらわれるのだ。

モノの世界に触れる。それは、俺のこころに、他では得難い健康を与えてくれる。

 

凄味のある言葉

何かが切れている、という感覚がある。

凄味のある言葉の話である。
 
凄味のある言葉は、決してオリジナリティに溢れているとはかぎらない。というより、ほとんどの場合、そこに通俗的な意味での創造性はない。使い古された表現なのに、鋭く光る。俺は、そういう言葉が好きだ。
 
明らかなことは、そういう言葉は無頼の精神からのみ、発せられるのである。思うに、無頼とは、頼るところが無い、のではなく、無に頼る、の意味である。無とは、たとえば、肉体が腐っていくところにあらわれる世界である。
 
無頼の精神は、無のみを頼るところとしている。無頼の精神は、紙一重である。無頼の精神は、針一本である。無頼の精神は、危機である。
 
気をつけなければいけない。なぜなら、無は肉体の腐敗が完成したところにはないのだから。無はつねに進行中でしか捉えられないものである。要素と要素の結び目が解かれて、あらたな関係が構築されるその進行過程にのみ、無の深淵はあらわれる。
 
詩人の西脇順三郎もまたこういう事情に通じていたという意味で、無頼のひとであった。西脇は語る。

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肉体Xの腐敗が完成したところにあるのは、あたらしい物質Yにすぎない。そのどちらも、同様につまらない。しかし、その過程において、関係がぶちぎられるときはおもしろい。無が覗いているからである。すべてを飲み込みかねない、無がのぞいているからである。

 

西脇はつづける。そして、詩の創造とは、そうして、つかのま吹き込んだ無の風によって、ちいさな車を回すことなのだと。創造するひとは、無に頼らなければいけない、と西脇もまた、考えていた。つまり、創造するひとは、無頼でなくてはいけない、と西脇もまた、考えていた。俺もまた、そう考えている。

 

凄味のある言葉は、切れているのである。

凄味のある言葉には、無の風がびゅうびゅう吹いているのである。
凄味のある言葉は、構築されたものを保護するためには発せられないから、通俗的な創造性など必要としないのである。
すでに現実になっているもの、誰の目にもみえるもの、力の強いもの、灰色のもの。
これらのものを保護するために発せられる言葉だらけの世の中で、凄味のある言葉は鋭く光る。
 
凄味のある言葉をきくと、たまらなくさわやかな気持ちになるのは、俺の心に、無の風が吹き渡るからであろう。
そういう意味で、俺は、無頼でありたいとおもう。