はじっこに書きつけることば

ノートの端にする落書きのような奔放さ、乱暴さで書いていきます。

檜垣立哉『食べることの哲学』、村田沙耶香『コンビニ人間』

檜垣立哉『食べることの哲学 (世界思想社) 』を読んだ。要約を示した後、いくつかのコメントを書く。

 

食べることの哲学 - 世界思想社

 

目次は以下の通り。

 

0. 突き出し
われわれは何かを殺して食べている

1. 前菜
料理の技法――味・レヴィ=ストロース・腐敗

2. オードヴル
カニバリズムの忌避――法の外のタブー

3.スープ
時空を超える宮沢賢治――生命のカニバリズム

4.肉料理
食べることは教えられるのか
――「豚のPちゃん」から学ぶこと

5.海産料理
食べてよいもの/食べてはならないもの
――イルカ・クジラ漁と『ザ・コーヴ』の真実

6.デセール
人間は毒を喰う――アルコール、嗜好品、デザート

7.食後の小菓子
食べないことの哲学――絶食と拒食 

 

 

 「文化としての人間と、動物身体としての人間」が「端的に対立」するようなポイントとして食べることを捉え(p.5)、そこに生じる問題を人間が根底において直面する「薄暗い場面という状況」として考える(p.8)というのが大まかな筋だ。

 たしかに人間は食べなくては生きられず、そうして食べるもののほとんどが生きていたものである。つまり、人間は殺さなくては生きていけない。そうなると私が生きるために他のものを殺してもいいのか、という倫理的な問いが必然的に生じてくる。(本書においては宮澤賢治よだかの星」によってこの問いが論じられる:第三章)これは極限的には私が生きるために他の「人」を食っていいのかというカニバリズムの問題に行き着くだろう。たとえば本書においてはこの文脈で第五清進丸事件に触れられるが(第二章)、この事件の裁判で露呈されるのは「人が人を食う」ことを特に罰する規則が法の世界には存在しないということである。(同乗員の肉を食って生き延びた船長は「死体損壊罪」として裁かれた)人が人を食うこと、カニバリズムはこの点において法の外部に存在するようなことである。

 そしてカニバリズムは人が人を食うことから拡張されて、ペット(ダナ・ハラウェイの用語で言えば「伴侶種」)を食らうことにまで延びていく。これが本書ではイルカ漁反対の映画「ザ・コーヴ」や、妻夫木聡主演で「ブタがいた教室」として映画化された小学校において最後には食うという前提で豚を育てる「いのちの授業」を通して考察されていく。(第四章、第五章)

 カニバリズムの問題をさらに突き詰めれば、動物を食らうことは皆おしなべてカニバリズムであるという宮澤賢治的な問題に至るだろう(「なめとこ山の熊」)。これは先ほどの「よだかの星」の問題:私が生きるために他の者を殺していいのか、と結びつき、断食という極点にいたりうる。これは自然な行為であるといえる「食べる」=「生きものを殺す」への最高水準の抵抗であるといえ、その意味で文化的形態の極限である。一方でこの断食には、晩期資本主義社会に特有の問題である拒食症/過食症という摂食障害という異なるベクトルも存在している。(最終章)

 以上のような論点が、食べることに先立つ、あるいは同時である(文化としては踊り食い)、殺すことという主題に関してあげられる。加えて、この本では「料理」に関しても考察されている。檜垣は「おそらく「料理(cuisine)」というものはひとつしかない。それは、コクや旨味を軸に形成されたものである(p.20)」という。コクや旨味とは何かといえば「腐敗させたもの」の性質である。

 ここで意識されているのはレヴィ=ストロースの神話=料理論における「料理の三角形」であるが、ここで彼の料理論の前提を少し確認しておく。レヴィ=ストロースにとって、料理とは自然と文化を調停する技術であり、その点で神話と同じ機能を持つ。それゆえに彼において料理の問題は、『神話論理』という神話分析の大著において主要なモチーフとして繰り返し語られるのである。たしかに料理とは自然から得たそのままの「食材」(多くは端的にいって「死体」である)を文化的な技術によって喜びに結びつくような形に加工されることに他ならない。レヴィ=ストロースの「料理の三角形」は生のもの、火にかけたもの、腐敗させたものの三頂点からなる。生のものは自然に近い軸におかれ、火にかけたもの、腐敗させたものは文化に近い軸におかれている。これはロマン・ヤコブソンの音韻論の語彙から、無徴/有徴とも区別される。先ほど述べたように檜垣は「料理(cuisine)」を腐敗させたもの(このカテゴリーに「煮たもの」も含まれる)との連関で説明する。そしてその視点からすると北ヨーロッパの「味気ない料理」(たとえばアングロ・サクソンのステーキ)は料理ではないというふうにも言えるだろう。

 この「腐敗させたもの」としてのコク・旨味を重視する料理と「生のもの」=無徴の料理の差異は、政治的な対立の問題でもある。グローバル社会における量の食文化と質の食文化の対立である。「端的に言おう。焼いたものという「単調さ」を強調するアングロサクソン系の食文化は、均質なお金の価値で、世界全体を覆いつくそうとするアメリカ資本主義のあり方そのものを示しているのではないか(p.163)」じっさい、質の料理の国・フランスでは、量のアングロサクソン食文化の象徴・マクドナルドへの襲撃事件が起こっている。また、これはメキシコ、ブラジルの反-アメリカ合衆国的な食文化の問題でもる。(しかしここには錯綜があると檜垣は指摘する。アメリカ合衆国では「味のある」メキシコのタコスが欠かせないといった事情がある。)(第六章)

 さらにいえば「腐敗させたもの」は、下手に腐敗したものは食べられないという意味で、毒でもある。だから、チーズや醤油などの発酵食品は、文化によって「毒」をコントロールして生まれたものであるという視点が成り立つ。その極点にあるのが「酔い」という異常状態をもたらす「毒」であるアルコールであろう。またその周辺としてたばこやマリファナといった嗜好品についても考えるべきだ。

 しかしそもそも「毒」とは何かといえば、それは「生物である私の存在を脅かすもの(p.174)」であり、つまりは私にとって異他的なもの、同化不能なものである。であれば、自分からかけ離れた他の生物を食らわざるをえない(自分に近いものを食べればカニバリズムになる)人間にとって、「毒」を食うことは構造的な必然であるということになる。(第六章)

 

 以上が要約。以下、数点のコメント。

 

・第二章p.65-67に「アンパンマン的なカニバリズム」として、臓器移植の例があげられる。たしかに檜垣のいうようにカニバリズムと臓器移植は「自分が生きながらえるために他人を身体にとりこむという意味」においてよく似ている。しかし、ここに僕はそれほど納得できなかった。考えてみると、それは臓器移植が心臓なら心臓の輪郭を維持したままで移植され、さらに移植先の人間が死ぬまでは基本的にそのままで維持されるからであると思う。これは咀嚼-消化という異物を解体するプロセスが重要である食べることとは、やはり異なる問題なのではないか。だからこそ、臓器移植においては「あなたの身体の中で彼/彼女が生きている」というような決まり文句が生まれうるのではないかと思うのである。

・上の違和感は明らかに、食べることにおいて何を本質的とみなすかという部分にかかっている。檜垣が本書の中で咀嚼-消化について論じている部分は恐らくなかったのではないかと思う。本書においては論旨上、食べることのうち、口に入れる直前までの過程が強調されているという事情はあるだろう。僕は食べることのグロテスクさを咀嚼-消化の過程に強く感じるため、上のような違和感が発したのだろう。咀嚼-消化としての食べることという文脈ではひとまずヤン・シュヴァンクマイエルが浮かんだ。

・鹿児島県志布志市ふるさと納税PR映像「ウナギのウナ子(正式名称:少女U)」についての檜垣の感想も面白かった。ウナ子の不気味さは「水着の女子高生」に「養って」といわせる性的視線にあるのではなく、むしろ食の問題にあるように思えた、というものである。水を引いてやったり家を作ってやったりと手間をかけて育て、「ウナ子」という固有名まで与えた存在をなんともなく食べること(しかも「さよなら」というセリフでウナ子がその運命を受け入れていることが示される)、そして食べたと思ったら次のウナ子が現れ、また「養って」ということ。その反復性が「ホラー映画」的に怖いと檜垣はいう。そして檜垣はそこで「人間が生と対峙する食の構造が人間のコントロール下におかれつづけるというきわめてグロテスクな事情」が明らかになっており、それこそが不気味さのひとつの原因であると述べる。たしかに、そうした視点で見るとこの映像にはなかなかの批評性があるな、と思える。僕としては、固有名を持つ存在が入れ替わり立ち替わり現れ、食われることという不気味さを、本書の別の箇所で触れられる「顔=人格性の象徴」を食わせるものとしてのアンパンマンの不気味さとともに少し考えてみたいなと思った。

うなぎのうな子 鹿児島県志布志市 「養って」 - YouTube

 

村田紗耶香の芥川賞受賞小説『コンビニ人間』も最近読んだので、食の問題とあわさるようなところを数箇所、並べてみたいと思う。この小説には自らを構成するものとしての食べものというモチーフがしばしば登場するからだ。本当は檜垣の文脈とあわせて論じてみたいところだが、今回は割と長く書いて疲れてしまったので、今後機会があれば行う。その際にはホラー映画的構造の分析に少し力点を置いてみたい。

 

・幼少期の「私」が公園で死んでいた小鳥を掌の上にのせ、母を含む大人たちの所へ持って行き、「これ、食べよう」と言って周囲を凍りつかせたというエピソードが出てくる。ちなみにとがめる母に「私」は「なんで? せっかく死んでるのに」という。(p.8)

 

・「私の身体の殆どが、このコンビニの食料でできているのだと思うと、自分が、雑貨の棚やコーヒーマシーンと同じ、この店の一部であるかのように感じられる。(p.23)」

 

・「味がする液体を飲む必要性を感じないので、ティーバッグを入れずにお湯を飲んでいるのだ(p.83)」

 

・「これは何ですか?」「大根と、もやしと、じゃがいもと、お米です」「いつもこんなものを食べているんですか?」「こんなもの?」「料理じゃないじゃないですか」「私は食材に火を通して食べます。特に味は必要ないのですが、塩分が欲しくなると醤油をかけます」丁寧に説明したが、白羽さんには理解ができないようだった。嫌々口に運びながら、「餌だな」と吐き捨てるように言った。(p.103)

 

・喉が渇いていることに気が付き、水道をひねってコップに水を汲み、一気に飲み干した。ふと、人間の身体の水は二週間ほどで入れ替わるとどこかで聞いたことを思い出す。毎朝コンビニで買っていた水はもう身体から流れ出ていき、皮膚の湿り気も、目玉の上に膜を張っている水も、もうコンビニのものではなくなっているのだろうか、と思った。(p.138)