はじっこに書きつけることば

ノートの端にする落書きのような奔放さ、乱暴さで書いていきます。

2014年9月にかいた談スの感想

ひとりの男の身体が、唸り声をあげる。彼を唸らせるのは、身体内部のざわめきである。ざわめきは、恐らく、こう訴えているのだ。「今すぐ排泄なさい、さもなくば……」だけれど、それすら定かではない。ざわめきは実際、確かな言葉ではないのだ。

ふたりめの男がやってくる。この出会いによって、ひとりめの男の注意は、ざわめきから、目の前に現れたもうひとりの男へと移ったようにみえる。つまり、多様なざわめきは、集められ、ひとつの塊へと形を変えたのだ。こうして、ざわめきをその内にはらむところの、ふたつの塊が向き合うこととなった。

はじめ、彼らはどこかよそよそしく振舞っている。ふたりは、まさに別々の塊なのだ。しかし、それも、ふたりで身体を組み合わせて、全体的な運動をおこなうようになるまでは。運動がはじまると、ふたつの塊は、ひとつの塊へと変わる。

そうしているうちに、三人目が加わるだろう。全く同じ過程をふんで、ふたつの塊は、ひとつの塊へと変化していく。ところで、このとき、塊は、いったいどのようにしてひとつの塊たり得ているのだろうか。先ほど、身体内部のざわめきがひとつの塊へと変化したときには、私たちが、意識とか魂とか中枢とか呼ぶようなもの、他者の出現によって敏感になったそれが、機能していたと考えられる。では、そうしてできた塊と塊、すなわち、二つ以上の身体がひとつの塊へとなるときには、いったい何が機能しているのだろうか。

「1…2……3」掛け声が、彼らをつなぎとめている。掛け声が、彼らをひとつの塊としてあらせている。彼らは、まるで予め打ち合わせてあった「かのように」カウントの声を出す。いや、これではまるで、予めそこに、カウントがあったかのようではないか。その通りで、彼らはただ、そのカウントを、掛け声でなぞっているだけなのだ。カウントは、はじめからそこにあった。カウントが、彼らをつなぎとめ、彼らをひとつの塊としてあらせているのだ。

いまや、ひとつひとつの身体はまるで、ざわめきのようだ。はじめ、ひとりの男にとって、激しい便意がそうであったように、ひとつひとつの身体は、掛け声によって結ばれた全体におけるざわめきである。

そうして、やりとりは続いていく。彼らは、身体の微細な領域、すなわち、最も身近なざわめきの領域へとはいっていくだろう。いまや彼ら自身がざわめきなのだ。大きな固体は小さな固体に侵入することはできないが、大きなざわめきは、小さなざわめきのなかへと侵入することができる。ある意味で、ざわめきは、大きさを持たないのだ。

このダンス作品が持つ恐ろしさは、それが孕んでいるこういう思想にある、と私は思う。こういう微細なものへの感覚を持った思想は、今ある世界を全面的に解体してしまうだろう。しかも、そういう解体は、ほとんど気づかれないうちに完了されてしまうだろう。この作品における特異な態度は、視点の変更などという言葉では表されない。それは、視点、すなわち目から、ざわめきを感ずる器官、すなわち耳への移行なのだ。

だから今日、本当の意味で聴覚に愛されたこのダンス作品を、体験し、私は恐ろしいような気持ちさえ抱いたのだった。