はじっこに書きつけることば

ノートの端にする落書きのような奔放さ、乱暴さで書いていきます。

現在の俺が書いた談スの感想

いわゆるコンテンポラリーなダンス作品の中で考えてみたとき、談スの公演の特徴は、とにかく観客がよく笑うということである。コンテンポラリーダンスの作品といえば、観客は気難しい顔をして、じっくりとその作品に対する思考を深めていて、だれもがまるで老批評家みたいに振る舞っているようなイメージもあるけれど、この作品に関してはそれはまったく当てはまらない。観客はみんな、大きな口を開いてげらげら下品に笑っている。もとより客層だって、やたらとインテリぶったようなのは全然いなくて、にこやかな一見普通のおばさんたちが、たくさん観にきているのだ。

 

いや、じっさい、この作品は本当におもしろいのだ。おもしろくて、とても笑える。軽薄な笑い声は、けっして止むことなく、ショーの最後までつづいていく。だけれど、それは、この作品が内容を持たない表面的なものだということを、ちっとも意味しない。いやむしろ、その事実こそが、この作品が第一級の思想的深さをもった芸術であることを証明しているのである。

 

ここで起きている笑いをよくよく考えてみると、それは人間の身体がモノになってしまうことに対する笑いなのではないか、という気がしてくる。ひっくりかえって、ころがって、固まったとおもえば、また、ほどけて。ステージ上のダンサーの身体は、まるでモノのようだ。というより、彼らの奇怪な動きは、俺たちに、俺たちの身体もまたモノにすぎないことを教えてくれる。

 

俺たちはふだん、自分の身体はなにか特別で、そこらにあるマグカップやらパソコンのキーボードやら落ち葉とはまったく異なる「モノ」であるかのような幻想を抱いているけれど、死ねばひとの身体は腐るだけだ。少しずつ、人間の形を失って、少しずつ、モノの領域へと沈んでいく、死体。自分の身体だって、いつかそうなる。もちろんそうなる前に、気の早い炎に焼かれて、骨粉になってしまうのが現代の日本人のあらかたなのだけど、俺なんかはそういう朽ち果てていく死体に強く憧れるので、できれば死体は森に放置していただきたいものだなあ、などとおもったりもする。

 

こういうイメージというのは、グロテスクな色彩をともなって、ある人々の顔をしかめさせるかもしれないが、ところがどっこい、談スに心奪われるような人種にとっては、げらげら腹を抱えて笑いたくなるような、極上のコメディショーなのである。

 

元来、笑いというのは人間の幻想が、がらがらと音をたてて崩れていくところに発生するものだ。高級なスーツでびしっときめて、胸を張って歩いていた紳士が、突然、転んでしまったとき。罠を仕掛けた子供たちは、物陰からそれをみて、げらげら笑うだろう。彼らが笑っているのは、清潔で理性的な社会的人間という幻想が、物質的な身体の重さに足をとられ、本当にこの世界を支配しているのはモノなのだという事実が暴露されたからである。そこで起きる笑いは、もはや人間の領域をはなれているから、ブラックなどではありえない。あっけらかんとした、明るい笑いである。

 

だから、うんちとかおしっことかは、やっぱりいくつになっても、面白いのである。どんなにかわいくて、俺たちの幻想/妄想を活発にするアイドルだって、やっぱりうんちをする。政治家が高尚な人類の理想を語っても、突然の便意によってそれを中断されてしまうこともある。そしてそれは、さっきまで理性をフル稼働させて彼の話を聞いていたひとびとの表情を、いっきに和ませるだろう。そして、談スにおいてもまた、踊り手たちは、便意に、身体のどうしようもない重みに、振り回されている。そしてその様が、観客を腹の底から笑わせているのである。

 

頭のなかでこねくり回して作り上げられたダンス作品などが、くだらなくならないはずがないのだ。それは、人間の理性のはたらきが、身体を十分にコントロールできるなどという幻想が解体されることもなく、偉そうな顔をしていまだ鎮座しているからだ。身体のほんとうは、おもたく、不可思議で、まっくらだ。心臓の拍数も、消化のスピードも、筋肉の張りの具合も、人間たちにはコントロールできない。なのに、それをコントロールできているかのようなツラをして、理性的に作品を構築すれば、それは人間のひとり相撲にしかならない。

 

ダンサーが便意に悩まされたり、身体の重みに振り回されたり、あげくの果てには、じぶんの体内を探検したりするこの作品をみたあと、俺の心はとても晴れやかであった。それは、俺がふだん拘泥しているような現実の世界が、じつは人間の拵えものにすぎないことが暴露され、深遠なるモノたちの世界がそこに現れていたからである。モノの世界に触れる。それは、俺の心の中に、他では得難い健康をあたえてくれる。