はじっこに書きつけることば

ノートの端にする落書きのような奔放さ、乱暴さで書いていきます。

凄味のある言葉

何かが切れている、という感覚がある。

凄味のある言葉の話である。
 
凄味のある言葉は、決してオリジナリティに溢れているとはかぎらない。というより、ほとんどの場合、そこに通俗的な意味での創造性はない。使い古された表現なのに、鋭く光る。俺は、そういう言葉が好きだ。
 
明らかなことは、そういう言葉は無頼の精神からのみ、発せられるのである。思うに、無頼とは、頼るところが無い、のではなく、無に頼る、の意味である。無とは、たとえば、肉体が腐っていくところにあらわれる世界である。
 
無頼の精神は、無のみを頼るところとしている。無頼の精神は、紙一重である。無頼の精神は、針一本である。無頼の精神は、危機である。
 
気をつけなければいけない。なぜなら、無は肉体の腐敗が完成したところにはないのだから。無はつねに進行中でしか捉えられないものである。要素と要素の結び目が解かれて、あらたな関係が構築されるその進行過程にのみ、無の深淵はあらわれる。
 
詩人の西脇順三郎もまたこういう事情に通じていたという意味で、無頼のひとであった。西脇は語る。

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肉体Xの腐敗が完成したところにあるのは、あたらしい物質Yにすぎない。そのどちらも、同様につまらない。しかし、その過程において、関係がぶちぎられるときはおもしろい。無が覗いているからである。すべてを飲み込みかねない、無がのぞいているからである。

 

西脇はつづける。そして、詩の創造とは、そうして、つかのま吹き込んだ無の風によって、ちいさな車を回すことなのだと。創造するひとは、無に頼らなければいけない、と西脇もまた、考えていた。つまり、創造するひとは、無頼でなくてはいけない、と西脇もまた、考えていた。俺もまた、そう考えている。

 

凄味のある言葉は、切れているのである。

凄味のある言葉には、無の風がびゅうびゅう吹いているのである。
凄味のある言葉は、構築されたものを保護するためには発せられないから、通俗的な創造性など必要としないのである。
すでに現実になっているもの、誰の目にもみえるもの、力の強いもの、灰色のもの。
これらのものを保護するために発せられる言葉だらけの世の中で、凄味のある言葉は鋭く光る。
 
凄味のある言葉をきくと、たまらなくさわやかな気持ちになるのは、俺の心に、無の風が吹き渡るからであろう。
そういう意味で、俺は、無頼でありたいとおもう。