はじっこに書きつけることば

ノートの端にする落書きのような奔放さ、乱暴さで書いていきます。

現在の俺が書いた談スの感想 ver.2

前回載せた感想が、すこしまとまりが悪かったので、大幅に編集しました。

こちらをよんでから、前回あげた方を読んでくだされば、もうすこしはいいたいことがはっきりするかとおもいます。

 

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ライトをあびた肉体が、むすび、ほどけ、ちぢみ、のびて、

それはまるでモノみたいにみえる。

それを観ながら、観客は口を大きく開いて笑っている。

笑いは内側からこみ上げる衝動であり、制御不可能な痙攣である。

笑う観客は、まるで機械みたいにみえる。

笑う観客は、まるで、モノみたいに見える。

 

談ス。

この作品は一貫して、身体のモノ性をとりあげているのだ。

 

俺たちはふだん、自分の身体はなにか特別で、そこらにあるマグカップやらパソコンのキーボードやら落ち葉とはまったく異なる「モノ」であるかのような幻想を抱いているけれど、死ねばひとの身体は腐るだけだ。人間の身体は、まさしく、モノの領域にあるのである。

 

この作品は、あの手この手をつかって、そのことを証明しようとしている。

だけれど、それは綱渡りの難関であるはずだ。

もし、理性の力でそれを説明しようとすれば、すぐさま、シンプルな矛盾にいたってしまうからである。

しかし、この作品は笑いの力によって、その難関をすんなり超えてしまった。

笑いはまことに、モノの世界への良き先達である。

 

笑いというのは、そもそも、人間の上半身の幻想が、身体=モノの領域によってその虚勢を暴露されたとき、生まれるものだ。綺麗に着飾った紳士が転んだとき、政治家の勇壮な演説が突然の便意によって中断されたとき...。

俺たちはこの世界の真実の支配者は、モノなのだと思い知る。

そして、あっけらかんと、笑ってしまうのである。

 

だから、うんちやおしっこはいくつになっても面白い。

俺たちは、ふだんどんなにすましていても、突然の便意に文字通り、振り回される。

身体のほんとうは、おもたく、不可思議で、まっくらなのだ。

 

談スには、こういう笑いの感覚がしっかりと胎動している。

だから観客は、晴れやかな気持ちで笑いながら、すこしずつモノへと変わっていく。

そのとき、ふだん拘泥している、人間たちの幻想の世界はがらがらと解体し、さわやかな広がりがあらわれるのだ。

モノの世界に触れる。それは、俺のこころに、他では得難い健康を与えてくれる。