はじっこに書きつけることば

ノートの端にする落書きのような奔放さ、乱暴さで書いていきます。

旅の類型学ーーヴィム・ヴェンダース「パリ、テキサス」

当たり前のことだが、旅はひとつではない。

 

砂漠を歩く白痴的なトラヴィスは、初期化する旅を歩いている。

彼の旅は、象徴的である。一度、心についてしまった傷というのは、決して消えることなくその人生を決定していくものだが、トラヴィスが図るのはその一切の無効化である。

パリ、テキサス。自らの生の原点に戻ることで、彼は一切をはじめに戻そうとする。人生に、すでに、加わってしまった限定を消去し、可能性の無限に立ち返ろうとすること。このような旅を、私たちは、初期化する旅とよぶことができる。

 

ジェーンの旅は、現実的次元にとどまる旅である。

彼女は、ただ現実世界のコトを前に進むのを嫌がり、それに一時停止を加えているにすぎない。彼女は事実、すでに為された設定を放棄することはない。彼女は、すべてをそのままに保存しようとするのである。

このような旅は、一時停止の旅である。

 

捨てられたハンターの四年間を旅とよぶことが可能ならば、それは再設定の旅である。

実の両親と別れたとき、すでに三歳になっていたはずの彼が、叔父夫婦をほんとうの親とみなしていることは不思議ではない。すべては初期化され、そして再設定されたのであるから。ここでは、象徴的な次元のあとに、間をあけずに現実的な次元がきている。

 

ところで、トラヴィスの初期化の旅が中断される時点から、物語ははじまる。

象徴的回復は中断され、トラヴィスは強引に現実的次元に引き戻される。

これは同期する旅の出発であり、その道連れは彼の息子(ハンター)である。

そしてまた、衣装と遠近法によって殊更に示されるのが、この親子の同型性なのだが、これを言い換えると、ふたりは映画において同じ人間の反復であるということになる。

 

しかしなぜ、片方は頓挫し、片方は成功するのだろうか。

言い換えれば、なぜ、ハンターは母の元に帰るのに、トラヴィスはふたたび旅に出なくては行けないのかーー終わりのない旅が(ひとはその心の傷を無効化することなどできない)せっかく休止されたというのに。

 

私たちは、母の傍らにいるかぎり、象徴的に初期化されうる、とヴェンダースは言おうとしているのだろうか。若いジェシーは、トラヴィスからすれば母とみるにはあまりに性的であるが、息子ハンターにとっては全き母である。母性は生命を初期化する。だから、不十分に初期化されたトラヴィスは、不可能な旅へ向け、再び出発しなくてはいけない。自らが生まれた、パリ、テキサスへ。

 

この美しいフィルムが、ロードフィルムの傑作として記憶されつづけるのはこういう事情によってなのだ。

旅の類型学。ひとつの美しい旅のようにして映画人生を送ってきたヴィム・ヴェンダースは、旅が世界に出現するときに纏う様々な様相を、私たちに明らかにしようとしている。

初期化する旅、一時停止の旅、再設定する旅、同期する旅。

もし、人類が好む言い様が正しくて、人生が旅の比喩で語られるのだとすれば、私たちの生もすべて、こうした旅の要素の混交として読みうるものなのだろう。