はじっこに書きつけることば

ノートの端にする落書きのような奔放さ、乱暴さで書いていきます。

「色々な考え方があるね」ではなぜ不十分なのか

俺がこれから書こうとしていることは、至極、当然のことである。けれど、そうした論理の裏側に俺の個人的な復讐心があることを告白しておくべきか。自分でいうのもなんだけれど、俺はわりと物事を考える子供だった。しかしそれ以上に、俺はアマノジャクだった。どうしようもない、悪童だった(いまもそうかもしれない)。先生のいうことをきちんと守る同級生の心の安全を、思わぬところから切り崩してやろうといつも狙っていた。こういう性質をもつ子供は珍しくないけれど、成長するにつれて彼らは抑圧されるだろう。幼い頃は大人が造った安全な足場をすこし揺さぶってやれば、優等生たちはすぐさま怒りだすものだったが、あるときから彼らは呆れた表情でクールにこう言い放つようになる。

「まあ、それも考え方のひとつだ」

この言葉が嘲りにすぎないことは、悪童ならみんな知っている。優等生どもは自分が真険に取り合いさえしなければ、俺たちは無力だと気づいたのだ。この言葉とともに幼い自分は黙らなければいけなかった。だけれどいま成長した俺は、あの頃の優等生どもと、いま目の前にいる優等生どもに至極当然な反駁をくわえてやろうと思っている。

 

優等生のキラーフレーズは、大人の世界では「多文化主義」とよばれている。青い地球をさまざまな民族衣装に身をつつんだ人々が手をつないで囲んでいるようなイメージ。多文化主義は世界平和と共に語られ、批判をうけつけない。けれど、悪童ならすぐに気づくことだが、そういうふうに動かしがたい前提とされているものの裏にこそ、こざかしい意図がはりつけられているのである。

それにまず、多文化主義と世界平和がむすびつけられていることは明確におかしい。理由は単純で戦争こそが文化の中核であるという人たちが世界にはたくさんいるから。人間の命は平等に尊く、それが他人によって奪われることは決してあってはならないというオモテムキをつくりあげたのも西欧人なら、その裏側にある無差別な大量殺戮としての戦争という観念を現実化したのも西欧人(と、わずかなアジア人)である。

結局のところ、優等生どもは大人になっても何も変わっていないのだ。ヤツラは「まあいろいろな考え方があるね」といっておけば、自分の考え方だけがゆいいつ力をもてるとよく知っている。そりゃそうだろう、君たちはすでに多数派として力を持っていた考え方に自分を馴らしたんだから。君たちは俺たちの思考を死んだ標本にして、立派な博物館にでもかざっておけばいいと思っているんでしょうね。

さらには多文化主義が、ひとつの世界に対する多数の見方という構図を前提にしていることも、まずい。これはナチュラリズムというひとつの関係の様式にすぎす、相対的なものである。フランスの文化人類学者フィリップ・デスコラのみるところでは、人類が持つ関係の様式はすべてで四種類に分類することができるのだが、そのなかには魂こそが唯一であり自然は多様に変化しうるという、ある意味ナチュラリズムと真っ向から反対するものもある(アニミズム)。つまり、多文化主義はそのよってたつ前提そのものに、あるひとつの様式を不公平に採用しているため、単文化的なのである。

ではさて、こうした優等生の支配に対して、俺はどういう作戦をたてればいいのだろうか。正直な話、実現性のある明確なプランはたてられていない。結局のところ一番いいのは棲み分けなのだけれど、資本が統制する現代にそれを説くことはあまりに非現実的だから。それに、安易に棲み分けなどといってしまえば、ヤツラの多文化主義に丸め込まれて、骨抜きにされてしまう可能性だってある。するとまずは、傷つき、傷つけることを恐れないということだろうか。コミュニケーションは、傷なしにはありえない。相手に丸め込まれるか、相手を丸め込まないかぎり、異なるふたりの対話は傷だらけである。そのなかで、あるいは、他人の異物性に気づくことができるかもしれない。棲み分けの契機が、うまれるかもしれない。とにかく、こちらの方で闘争を放棄してはいけないだろう。相手の足場を崩す、悪童的精神が求められている。そこで要請されるのが、文化の生成論である。その営為を通して文化の対立自体を(ある文化による専制を前提にするのではなく)中性化すること。文化の基体を会得すること。文化人類学者としてこういう仕事を達成できたら、それはきっと幸せだろうと思う。