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はじっこに書きつけることば

ノートの端にする落書きのような奔放さ、乱暴さで書いていきます。

最後は陽気な哲学者

しあわせであったら、ものなど考えないのだろうか。

少し前、ある人がそういっていた。そして、そのひと自身は苦しいのだと言った。だから自分は考えるのだと、頭から血を流して考えるのだと、俺に苦笑しながら告白した。俺は、ふうん、わかるよ、と返事をして、そして黙った。

 

こういう考え方がある。ひとはふだんモノを考えたりしない。ただ、習慣のみによって動く。たとえば休日、いつもとは逆の方向に乗らなくてはいけないのに、つい学校の方へむかってしまうということは、俺にはよくある。これは、駅に着くたび、どの電車に乗るべきかなどと考えたりはしていないことの証拠である。だけれど、駅の電光版に「ダイヤの乱れアリ」などと見つけた途端、俺は次の手を考えだすだろう。つまり、習慣が阻害されたとき、ひとははじめて考えるのである。

 

まあ、これは当然と言えば当然のことで、わざわざ誰かに言ってもらったりしなくてもはなから知っているようにも思うのだけど、でもやっぱり、大事なことだ。なぜなら、つまり思考には、失ったものを取り戻したいという気持ちがセットされているということだから。平衡が破れて、思考が生まれ、そして思考は、あの頃を回復しようとする。

 

ブルーノ・ラトゥールによるミッシェル・セールのインタビューの中で、印象的な場所があった。それは、ジル・ドゥルーズについての話で、セールはたしかこんなことをいっていた。

「彼はほんとうに不幸だった。たくさんのひとに攻撃されました。しかし、最後には自分自身の哲学によって幸せになったのです」

 

俺は、ほんとうに好きな人相手には、自分の心の中をすべてぶちまけてしまう癖があって、その被害者の中には、あるいは俺をひどいペシミストだと考えられている方もいらっしゃるかもしれない。うん、どうなのだろう。わからないけれど、たしかに俺の思考の裏側には、ある意味での復讐心があると、最近はよく思う。それはこの世界で胸を張れているものへの復讐心で、俺の中には根本的にそういうものへの劣等感があるのかもしれない、悲しいけれど。いまよりさらに若い頃には、その復讐心が現実に発露して、とても醜い出来事を起こしたこともあった。嫌な記憶だ。いまでもまだ、足を引き摺られている感じがする。

 

他人のことは知らないけれど、そんな俺にとって、考えることはやっぱり辛いことだ。いや、それは違うな。考えることはこれ以上ないほど気持ちがいい。思考する人間にはすべてが奇跡的に結びついてしまう、いわゆる「ユリイカ!」の瞬間がほんとうにあって、そういう時は信じられないくらい気持ちいい。恐れずにいえば、愛すら感じる。自分が愛の中にいると感じられるのだ。だけど、そうやって思考をつきつめていくたび、ほんとうにげんなりするのが目の前の下劣さで、自分の無力さである。よろこびにまかせて思考をすすめるたび、どんどん奥深く暗いところに迷い込んでいく気持ちがする。いや、というよりも、自分は特別に動いていないのに、どんどん世界のもつれや、嘘が見えてきて、苦しくなる。こうやってかくと、まるで思考は悪いオクスリみたいですね。しかし、ほんとうにそういう実感があるのです。

 

でも、哲学者はみんな、最後は陽気に生きるんだって、ここだけはとびっきりの単純さで、俺は信じている。思考は俺から満足を奪って、足場を切り崩し、逃げ道を断つけれど、その末には想像もできないような快活があるのだと、俺は信じている。これは宗教的だろうか。そうかもしれない。俺は思考する人間失格なのかも。まあ、いいけど。ジル・ドゥルーズは、最後は自殺しました。マンションから飛び降りました。でも彼はしあわせだったそうです。そういうことはあるかもしれない。哲学者最後の快活さは、もしかしたら自殺も受け入れるのかも。第一、自殺が不幸の表象だなんて、どうしていえるか。いえないでしょう。喜びの自殺だって、あるかもしれない。俺にはわかりません。

 

とにかく、いまはただ、来るべき開けを信じて、考え抜くことしかできない。思考する人間の道は、後戻りはきかない道だから。六十になったとき、七十になったとき、八十になったとき、俺はまるで初期化されたかのようにあっけらかんと笑うのだろうか。思考は初期化を目指して走る。思考する人の旅は、初期化の旅だ。回復。微笑み、まるで幼児のように。すべてに肯定を。そして、肥った酔っぱらいみたいに笑う。すべてに肯定を。青少年の馬鹿げた恋愛にも、ぷんぷん臭う文章にも、老いた人にも、肯定を。そして回復。肥った酔っ払いみたいに笑う。

 

そう、思考する人の旅は、初期化の旅だ。